子どものほめ方がわからない?ほめる効果と弊害

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私はほめられることはほぼないまま大人になりました。

ほめられたことないな~と思っていましたし、そのためにいろいろ性格的に弊害があったとも思っています。

けれど、私をほめたことのない自分の親がそのまま私をほめたところで、おそらくよい効果もなかっただろうと思います。

ほめることって考えれば考えるほど難しいからです。

もしかすると、叱るよりずっと難しいかもしれません。

叱り方は気をつけようと思えばできますが、ほめ方はそう簡単ではありません。

子どもをほめるとはどういうことなのか?少し考えてみました。

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ほめればいいというわけではない

・何かができたからほめるのはいずれ行き詰まる

何かよいことをした、テストで高得点を取った、そういうことでほめるとします。

すると結果についてほめたことになります。子どももそのときは嬉しいので、次も頑張ろうとするかもしれません。

そうすると頑張って結果がでたらほめられるのはよいですが、問題は思うように結果が出せないときです。

だんだんほめられることも少なくなり、それでも親や周りの人は頑張った過程をほめるようになるのですが、頑張っても結果が出ないときに過程だけをほめられても何だか素直に受け入れられなくなってきます。

ほめる側もそのうち過程ばかりをほめることも苦しくなってきます。

社会の成果主義の弊害がこういうところで出てしまいます。

・なぜほめられたのかわからないことも

子どもが自然に好きでやっていることでほめられると、意味がわからないでしょう。

本が好きだからたくさん読んでいる子に「本をたくさんよんでえらいですね(すごいですね)」と言ったところで当人はピンとこないでしょう。

人のよい点に着目するのは大事なのですが、それに対してコメントすると下手したらそれが評価になってしまうのです。

関係性にもよりますが、親や先生などの立場の場合、子どもについて発した言葉が評価になってしまいかねないということは忘れてはいけないですね。

よい点に気づいたことを伝えたいなら、えらいとかすごいではなくそのことについての対話にもっていくしかありません。

例えば本なら、「読んで偉い」ではなく「何の本が好きなのか」など話すことでよい点として注目していることを伝えるということです。

さらにそれが本人にとってよいことになりそうならば「本を読むとどんないいことがあるのか」なども伝えられるかもしれません。

ここでまた気をつけなくてはいけないことがありますが、役に立ちそうなことばかりに着目するのでもないということです。

そうすると結局また成果主義に振り回されてしまうことになるからです。

私はほめてほしかったのか?

ハートの風船

こうして考えていると、ほめるということの意味もわからなくなってきませんか。

ほめるというのはどういうことなのでしょうか?

ほめられずに育った私は親にほめられたかったのか?

改めて考えるとそうではない気がしてきました。

誰もがわかりやすいようなことでほめられてもたいして嬉しくもないように、何かができたからといって、高得点を取ったからといってほめられても、そうできなかったときのことを思って心配になるだけのことです。

私はおそらく何かができても、何もできなくても親に変わらずにいてほしかったのかもしれません。

できないときだけ叱られたりしたからほめられなかったと思っているだけで、別にほめてほしかったわけでもないのです。

どのような自分であってもいいと伝えてほしかったのだと今となってはそう思うのです。

ほめる効果があるとしたら、そういうことではないでしょうか。

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親や大人のすべきこととは

ほめるというのは難しくて、下手にするくらいならなにもしないほうがマシです。

ほめ方がわからない?たぶんそれが普通だと思います。

ほめるということそのものが評価の意味合いをはらんでいるので、人に対する評価の仕方なんてふつうの親にはわからなくて当然だからです。

学校の先生や会社の人事の人だって人を評価するのには一定の基準を共有して細心の注意を払ってやっているのですから。

親や周りの大人がすることは、あることについてほめることではなくてそのことが本人にとっての強みであったりよい点であるかもしれない可能性に気づいたということを伝えることです。

そのさいに注意することは成果に直結するかしないか、役に立つか立たないかという刷り込まれた社会の価値観を捨てることです。

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