子どもはほめて育てようとはよく言われますね。しかし、私はなかなかうまく子どもをほめることができません。それはおそらく自分がほめられないで育ったから、ほめるということの意味がわからないからだと思っています。
もっとも、私が子どものころは、学校の先生も親もいまほどほめて育てようという考え方を持っている人が多くなかったようには思います。
子どもをほめる、そのひとつをとってもいろいろな方面からの視点がありますが、今回は、ほめられずに育ったことで私がどうなったのかを少し考えてみます。
私が抱える問題点
もちろん、人の性格がどのようにできていくのかは簡単に言うことができないとわかってはいます。
すべてが、ほめられずに育ったせいなのか?というとそう言い切っていいいかはわかりません。
しかし少なからず影響していると思っているのは以下の事柄です。
・完璧主義
小学生の頃、漢字の書き取りの宿題などで、毎回親にチェックされて全部消されたり、消えないときはノートのページごと破られたりしていました。
そのせいかはわかりませんが、自分のやっていることに不備がないかは非常に気になります。
・自信がない
もっと自信を持ってと言われてもいつも困ってしまいます。自信とは自分を信じることと書くのでしょうから、誰に与えられるものではないはずですがわかりません。
自分を信じるってどういうことでしょうか。
・不安が強い
何をするのにも、ただ生活しているのでも不安が多いなあと思います。いつも怖い顔の親しか覚えていないので何をしていても安心はできませんでした。
習い事のピアノの発表会で自分の番が終わってもほっとするより叱られないかの心配をする子どもでした。
・失敗が怖い
失敗して自分に何か損害が起きることより、誰かにがっかりされたり叱られたりすることが怖いです。
そして会社員になってからは、失敗を恐れていることで上司からがっかりされて叱られました。今も家族や関わる人をがっかりさせたくないと思って無理をすることがあります。
・いつも焦っている
ゆったりと物事に取り組むことができず、いつも焦り気味で一度に片付けようと思ってしまいます。
当然いつもそんなことはできないので、やることを抱えているとかなりストレスがたまってイライラします。
・強迫的である
ものごとを始める、行う基準が「やりたいから」「やってみたい」ではなく「やらなければならないから」になっています。
また、たとえどんなに楽しい予定でも、予定として決定した途端に遂行しなくてはいけない義務になります。
・真面目過ぎる
真面目なのはいいことなので、そうではなく私の場合クソ真面目といえるでしょう。
クソ真面目なために余裕がなく、遊びがないためうまくいきません。
できないことがあることはクソ真面目な自分にはストレスになります。
私はどうしたらいいのか?
こうして書いていると、ひとつひとつの事柄はその中でも循環をし、事柄間でも影響しあっています。悪循環を生み、単なる円環のみならず絡まってぐちゃぐちゃになっているようです。
私は、自分が子育てをするようになってとくに、子どものころに自分がほめてもらえなかったことについて考えるようになりました。
子育てをしていく過程で、意識的か無意識かはいろいろですが子どもの年齢に沿って自分もまたその年齢をなぞっています。
もちろん、いい歳をしてすべて親のせいになどするつもりはありませんし、親を恨んでもいません。自分だって子どもにとってそれほど良い親でもないとわかってはいます。
自分がこれからできることは、自覚して向き合っていくことしかないのかなと思っています。こうして書いている中でも、文章の中で解決策を明示して締めくくることができないと、それではいけないと必死になっていることに気が付きました。
断ち切ろう、からまったものを解こう、解決しよう、自分が変わろうと思うことそのものが完璧主義から生じていますね。答えや結果の出ないことをそのままにしておくこと、それも私にとっては必要なことかもしれません。