親の責任は子どもが何歳まで?成人してもどこまでも続くのか?

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子どもが他人さまに迷惑をかけてしまったとき、親はいつまで責任を負わねばならないのでしょうか。

子どもがいる人にとっては大変気になることですし、いつなんどき、何が起こるかはわかりませんから、関係ないと思っているわけにも行きません。

子どもは別人格と言っても、責任の所在となると話は別だったりしますよね。子どもが起こした事柄と親の責任について考えてみました。

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成人していたら、法律上はなし

子どもが成人している場合、法律の上では親が子どもに代わって責任を負うことはないとされています。

未成年なら民法で責任能力がないと判断された場合に、監督責任者(大抵の場合は親)が負うとされています。その責任能力の有無については何歳からというはっきりしたラインはなく、裁判所により個々に判断されるということです。

また、責任能力がなく、親の監督責任下の話となっても、親がその義務を果たしていたかいなかったか、さらにはそれと原因行為への因果関係があるかどうかかも、個々のケースによって判断されます。

それでも、監督責任をきちんと果たしていたかの証明は難しいので、未成年の子どもについてはやはり親が責任を負う可能性があると考えておいたほうがよいでしょう。

法律上の責任は、法律のもとに償うほかないわけですが、問題はそれ以外の場合にもあるのです。

連帯責任の考え方

日本人独特なのかどうかは、海外の事情には詳しくありませんのでわかりませんが、よく聞くことに連帯責任という考え方がありますね。

高校などの野球部員が何か不祥事を起こしたら、その学校の野球部全体が大会への出場を自粛するなどというニュースを聞くことは1度や2度ではありません。

高校生ですから未成年ではありますが、他の部員は監督責任者ではないのですから、いつもおかしいなと思って聞いています。

有名芸能人の方のお子さん(と言ってももう成人している子ども)が、何か事件を起こすと、親であるその有名芸能人の方は、謝罪し仕事を自粛する、場合によっては何年も表舞台から姿を消すなどということもしばしばあります。

本来は、責任をとる必要のない立場のものが謝罪し、責任を負っているのですが、これについてはどう考えればよいのでしょうか。

道義的責任と社会的責任

野球部の場合は、健全な活動を全うできなかったことの影響について社会的責任を取ろうとしてのことでしょう。

芸能人の場合は、親としての道義的責任を負ってのことだと思うのですが、このあいまいで明確な線引きのない責任については、本来簡単に背負うべきではありませんし、もっとも第三者が背負わせるものでもないのです。

慣例となってしまえば場合に応じた公正な判断ができませんし、本当の意味での謝罪や反省ができなくなります。

他者を責めることは簡単ですが、それによって責任を負うということが形だけのことになってしまう矛盾が生じることには気づいているのでしょうか。

世論や感情の問題

手をつなぐ親子

子どもが成人したからと言って、一切の責任から解放されるとは思ってはいません。しかし、最近の風潮として、絶対的に叩きやすい事柄を過剰に糾弾するということがあり、そういったことの回避のために責任を負って収束を図るといった目的もあるのではないかと感じます。

また、責任の感じ方には個人差があり、状況や場合によっても個々のケースを見ていかないとわからないと言えるでしょう。

そういった解釈のあいまいさを逆手に取って、感情論でなにがなんでも批判する、叩くということは関係のない第三者の集合がすべきことではないと考えます。間違っていることは司法によって裁かれ、それに則って償うほかはやはりないのだと思うのです。

道義的責任や社会的責任を感じて、それを背負うのはその人の自由ではありますが、それは他者によって強いられるものではなく、誰のときはあのときは責任を取ったのだからあなたも、今回も取るべきだと周囲が迫ることは出来ないものと思っています。

最も、私の場合は、子どもが何かをしでかして、他所様に多大な迷惑をかけてしまったとしたら、たとえ法的責任がないと判断されても、すべての責任を感じてしまうでしょう。

しかし自分がそうだからといって、同じようなケースで他の親にも同様にすべきだということを言うつもりは一切ありませんし、私も他者から責任を取れと言われて負うわけではなく自分からそうするつもりなのです。

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子どもを持つということ

そういったことを考えていたら、子どもを持つということが怖くなりますね。

自分ひとりではどうにもならないことばかり、自力が及ばないことばかりである上に、親は自分に加えて、プラス子どもの人数分のさまざまな責任を負って生きていかねばならないのですから。

他者に責任の所在を問うとき、自分もその責任を負うべき可能性についても考えねばなりません。

子育てとはつねに、自分でもない他人でもない、自分と他者の間を行き来する我が子との関係のありかたという一生終わらない課題と向き合うことなのだと思います。

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